Jan Shotaro Stigter and Riki Eric Hidaka / Doublehappiness In LonesomeChina 野田務 – 岡村詩野 アルバムレビュー


ITEM PAGE : Jan Shotaro Stigter and Riki Eric Hidaka / Doublehappiness In LonesomeChina
LIVE INFO : “FAF FU KONG” Jan Shotaro Stigter and Riki Eric Hidaka with The Seven Gods of Tokyo


野田努(ele-king)


eleking

1963年、静岡市生まれ。1995年に『ele-king』を創刊。2009年の秋に宇川直宏に活を入れられてweb magazineとして復刊させる。
著書に『ブラック・マシン・ミュージック』『ジャンク・ファンク・パンク』『ロッカーズ・ノー・クラッカーズ』
石野卓球との共著に『テクノボン』、中原昌也『12枚のアルバム』、編著に『クラブ・ミュージックの文化誌』、『NO! WAR』など。

http://www.ele-king.net/writters/noda/



私にできるのは聴くことだけだ。かんがえてはならない。
ウィリアム・バロウズ『麻薬書簡』……

などと、昔読んだキング・オブ・ジャンキーのフレーズを思い出しながら、ぼくはこの若々しい音楽を聴いている。しかし、かんがえてはならない。そして、この12インチは、サイケデリックという言葉で語られる以外に何があるというのだろうか。90年代生まれのふたりの若者が何を幻視しようとしているのかぼくには皆目見当つかない。が、しかしギター・サウンドという、いまさら何かそのフォーマットにおいてどんな冒険ができるのよという 難しいテーマを、彼らはすでに我がモノにしている。恍惚としている。ストーンしている。A面1曲(約29分)、B面1曲(約28分)という構成で、それぞれが組曲風になっている。美しくもあるが、汚らしくもある。心地良いが、荒削りだ。

いまだに律儀にもレコードやCDを買っている音楽ファンにわかりやすく説明するなら、サン・アロウ+グルーパー+スペースメン3+初期アシュラ・テンペル+ヴェルヴェッツ+サイモン&ガーファンクル+70年代日本のフォーク…… と、ますます訳がわからなくなるから止めておこう。

チルアウト・アシッド・フリー・フォーク……と、いや、とにかく、こちらはぶっ飛んでいるわけだ。生徒会のような日本のロック・シーンとはソリが合わないかもしれないが、どうかがんばって欲しい。この12インチは、上から次々と与えられるものでは満足できないという声明だろう。




野田努 / Tsutomu Noda



岡村詩野


東京生まれ京都育ちの音楽評論家。
『ミュージック・マガジン』『CDジャーナル』『朝日新聞』『VOGUE NIPPON』『FUDGE』などで執筆。
OTOTOYの学校での『音楽ライター講座』の講師担当。

https://twitter.com/shino_okamura



おそらくまだ“一部で熱心に愛されている知る人ぞ知る作品”といった紹介がふさわしいだろう。

Jan Shotaro Stigter and Riki Eric Hidakaによる『Double Happines In Lonesome China』。今年のレコード・ストア・デイのために制作されて販売された12インチ・アナログ・レコード(ダウンロード・コードつき)である。かく言う筆者もこの作品の存在を知ったのは発売されてからのことだった。

この作品、jan and naomiやGREAT3などで活動するjanと、自身のソロ活動の他、THE OTOGIBANASHI’SやQNなどの作品への参加など幅広く活動を展開するコンポーザー/ギタリウトのRiki Hidaka(日高理樹)が手を組んで制作したもので、両面合わせてたっぷり12曲が収録されている。曲調は様々ながらほとんどがインストで、アートワークや封入されているシートから窺えるのは、まるで60年代や70年代のサイケデリック・ロック系アーティストによる幻の作品、もしくは、アフリカやアジアのフォーク作品といった趣。聞けばインプロヴィゼーションによって制作された曲が中心だそうで、janと Hidakaが無国籍、かつ多国籍な感覚に根ざしつつ、フォルムやスタイルを解放させるべく自在に音作りに向き合っていることを改めて伝える1枚と言えそうだ。なお、ここには、踊ってばかりの国の林宏敏、GREAT3の白根賢一、MirrorMovesの Masahiro Oketa、Alain Bosshartが参加している。

フォーク、 サイケ、ノイズ、フリー・ジャズ、アフリカのフォークロア…といった要素をキチンと整理することなく心と体が任せるままに雑然とクロスオーバーさせたような12曲は、言ってみれば、メロディも構成もリズムもオブスキュアで掴みどころのないものばかり。過去の遠い記 憶を刺激されるようで、でも、実は真新しい出会いを音に具象化したもの、あるいは、かつて巡った場所をなぞっているようで、実は一度も訪ねたことがないような土地に思いを馳せているような…。janとHidakaが(恐らくは)即興で互いに音を出し合った結果生まれたこの作品は、そんな既視感と未体験とをゆるやかに往還することで抽出された不思議なタペストリーのような音絵巻と言っていいだろう。

だが、この作品から漂ってくるある一定の“匂い”が、激しく聴き手の脳裏をまさぐってくるのは間違いのないところで、その匂いこそが、もしかするとjanとHidakaがカタチにしようとしたものなのかもしれない、とさえ思う。匂いを音に置き換えるのは当たり前だが難しい。それはそもそも音楽を言語化することが極めて困難なのと似ているが、二人はそうした作業に飄々と、淡々と向き合っている。だが、その背後には、いくつになっても断ち切ることが出来ぬロマンティックでドリーミーな思いが隠されていることを、繰り返し聴くとうっすらと感じ取ることができるはずだ。

では、彼らが音で具象化しようとしているその“匂い”とはどういうものなのか。それは、斜陽、終末の果てに訪れる絶望、そして死臭、滅びゆく予感……。まだ20代の彼らにはおおよそ遠い未来のあまりに血なまぐさい匂いを、もしかすると明日起こりうることとしてぼんやりと描こうとしているように思えてならない。闇雲にブライトな未来を描くことになどちっとも関心がない、むしろ、どうにもならない下り坂の末に見えてくるエンドロールに彼らの視点は奪われてしまっているのだろう。なぜなら、そのジ・エンドの舞台にこそ香しい匂いを感じてしまっているから。少なくともここでの12曲が筆者に伝えてくれるのはそんな歪んだ美意識だ。

彼らがまた 次の作品を発表するのかどうかはわからない。だが、彼らの作業が、定期的なルーティーン作業からは明らかに逸脱したところにあることだけはハッキリとしている。そう、振り返ればそこでぼんやりと鳴っている死という薫りを持つ音。彼らの居場所はたぶんそんなところにある。




岡村詩野 / Shino Okamura