SR-LP-003

Riki Hidaka + Jim O’ Rourke + Eiko IshibashiI / 置大石
柴崎祐二 – 野田努 アルバムレビュー



柴崎祐二


1983年、埼玉県生まれ。2006年よりレコード業界にてプロモーションや制作に携わり、これまでに、シャムキャッツ、森は生きている、トクマルシューゴ、OGRE YOU ASSHOLE、寺尾紗穂など多くのアーティストのA&Rディレクターを務める。
現在は音楽を中心にフリーライターとしても活動中。

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大きな石を置いていく。のっぺりした庭の表面に様々な形を成す石が置かれ、どこからか「流れ」と「リズム」がやってきて、目を愉しませる。あるいはまた、石が置かれることによって閑かな変質を差し込まれた空間は、そこに在る意識の流れをも変質する。ある動きへと目を誘導し、環境へと耳を貸すように誘う。石が、在る。ただそれだけで、空間それ自体が、我々の中に流れ込んできて、我々もまた、空間の中に調和していることに気づく……。

本作『置大石』は、ジム・オルーク、石橋英子、日高理樹という、稀有なアーティスト/演奏家3人による、インプロヴィゼーション作品だ。それぞれ、オルークがシンセサイザーを、石橋がピアノ、フルート、エレクトロニクスを、日高がギターの演奏を担当している。各人、もはや細かな経歴の紹介も不要だろうが、3人に共通しているのは、アヴァンギャルドとポップ双方に精通し、その振れ幅の中で闊達な演奏活動を繰り広げてきたという点だ。より正確に言えば、一般的に理解される「振れ幅」とは違い、彼らのうちにおいては、前衛/ポップの対立項は、初めから互いににじみ合っているとしたほうがいいかもしれない。シリアスなインプロヴィゼーションを交換していようとも、無調性のにじみを浮き上がらせようとも、総体としてのサウンドはほんのりと調和への希求に駆動されており、それがために、聞き手もおのずから清廉や光明を感知することになる(逆に、彼らが「ポップス」の演奏に携わる際には、均衡=ハーモニーの中に、「外側」へと通じる孔や棘を巧みに忍び込ませてくる)。
この三人は、本作の制作以前から度重なるライブ共演を行ってきた盟友同士でもある。2017年の広島・松山に始まり、2018年の東京・山梨、2019年には九州で即興演奏公演を行ってきた。一連のシリーズは「Mining」=採掘と名付けられ、2020年以降も各地での演奏を予定していたが、昨年来のコロナ禍によって中断を余儀なくされた。だから、本作はこのツアー企画の延長線上に位置するプロジェクトであるといえるだろう(双方のタイトルに、「採掘」した「石を置く」という図式を当てはめてみれば、ライブ/スタジオ録音の洒落たアナロジーであるようにもみえてくる)。
それゆえに当然、ここに収められた演奏からは、突発的なキャスティングに基づく一回性ではなく、むしろ練り上げられた「偶然」を手繰り寄せ直すような沈着さが感じられる。お互いの音と「ぶつかる」のではなく、音と音の間にある間合いを、様々な位置からじっくりと計量しつづける柔和な理知が起動している様子なのだ。

A面曲「置_置_置」は、敷衍される各音=ドローンが下地の役割を担う。柔和な電子音に、エレクトリック・ギターのひび割れたトーンが絡み合う時、音それ自体が音との等間隔を測ろうとする生きた知性として空間を泳いでいく。互いを深く探り合いながら、その深さ故に、徐々にお互いを浸しあう。その微妙な間合いの移ろいを見極めようと意識を集中していると、いつの間にか聞き手(私)はこの音楽の中に坐して、音楽にとり囲まれているのを知る。ギターの音は、それがまずもって物体(金属弦)の振動する様そのものであるのを感得させるように、時折野放図にいなないたりする。音の単線同士が交わる時たまさか偶発的なハーモニーを生み出すが、けれどもそこに長く安住することなく、ふんわりと離れていく。このような形で現出するハーモニーは、その希少性、非恣意性という面からいって、厳格にコンポーズされた場合におけるハーモニーよりも、なにやら尊いものに思えてくる。視覚的に表してみると、中心に物質のない惑星運動というイメージが適当かもしれない。3つの音(とそれを発出する演奏主体)が、互いを相対化しながら旋回し、ときに各々の軌道上で出会うような。

B面曲「置___置___置」は、じっくりとしたピアノの弱打から幕を開ける。リフレインと呼ぶにはいまだ心もとないフレーズの幼体。どことなくバースが、そしてリズムが生まれそうな瞬間が訪れるが、決定的発生は出来得る限り引き伸ばされていく。その豊かな時間感覚よ。ひとまとまりの音楽的なセル(細胞)を取り出そうとすると、そのそばから柔らかな外膜が破れ、また別のセルへと融解し、結合していく。音同士が、文節の区切りを譲り合っているかのようだ。各音がスケール(音階と「大きさ」両方の意味で)を生成しそうになると、おのずからその外へと泳ぎ出てしまう。まさに、生成の瞬間を永遠化する試み。それでも、A面「置_置_置」と同じく、時折現出する偶発的なハーモニーは、いいようもなく美しい。むしろ、聞き手としては、A面での訓練を経ているからこそ、より一層この調和の瞬間が高貴なものに感じられもする。
曲名の「置___置___置」をA面のそれと比べてみるのもいい。「置」と「置」のあいだの距離「_」が、B面の方では更に広がっているのだ。そう言われてみると、ここでの音は、遠ざかりつつあるお互いの姿に目を凝らすように、ある種の慈愛のようなものを湛えているようでもある。惑星/衛星運動はいつか解きほぐれ、遠心力に導かれていく。その遠い未来を知っているからこそ、お互いに目を細めながら、音は音とできるだけ長く交歓しようとする。

おそらく、音には、その音が現出している様(それを「音響」と言ってもよいかもしれない)の内奥、あるいはその背後に、潜勢力を隠し持っている。音は、今ここで現出的に響き「終わる」ためだけにあるのではなくて、おそらくその潜勢力ゆえに、響き「続ける」こと、時には共同体の外部へと差し向けられ、我々の想像力の外側の様子をいまここに反響させてくれるものでもある。
思えば、優れた庭師が、庭という「内部」に石を配置していく時、我々は、その石がその空間へと固定的に縛られている様を鑑賞しているのではない。むしろ、その石の置かれ方の任意性(=たまたまこうであるが、それゆえに発揮される美)によって、あり得る空間の無量大数的バリエーションが保証され、その多彩な可能性へと意識が開かれていくのを知るのだ。その時、我々の意識は庭の内部に抑圧されるわけではなく、石と石とが織りなす無限小×無限大の懸隔や、我々と石との浮動的な位置関係を通じて、「外部」へと誘われる。言ってみれば、庭という「自然」の中に任意に配置された石は、人が奏でる楽音のメタファーであり、楽音が演奏家の身体と分かちがたく存在しているのだとすれば、石は「主体」のメタファーでもあるかもしれない。そう。この瞬間、音は一つの「ありえる生の形」の似姿に、いわば原初の政治性そのものにもなりうるだろう……。石/音/主体はどれも、庭/音楽/政治に空孔を開けるトポロジカルな変革の契機となる。
音楽の潜勢力は、我々が知らずとも「外部」を志向している。音楽に携わる者(聞き手はもちろん、演奏家も)が出来るのは、それを手懐ける作業ではなく、任意の場所に配置して、じっくりと観察し、それが招来する意識の流れの川下に広がる光景を手繰り寄せることなのかもしれない。即興演奏が射程にしうるもっとも芳醇な美の姿は、そうしたプロセスの中にようやっと現れ出るものなのだろう。「置大石」を聴けば、きっとそう思いたくなる。

2021年8月 柴崎祐二(音楽評論家)



野田努


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ele-kingにてレビュー掲載中

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