Riki Hidaka + Jim O' Rourke + Eiko Ishibashi、現行国内シーンを代表する稀代の音楽家たちによる繊細で豪胆なる音楽。
Riki Hidaka、Jim O' Rourke、Eiko Ishibashiよる音楽作品『置大石』は、3人によるスタジオセッションをベースにした、
20分尺の2曲で構成されています。
山梨・小淵沢のスタジオで、ミニマルな編成ゆえの張り詰めた空気のなか互いの音を相対化させながら紡がれたその音楽は、
演者たちの持つ繊細で鋭敏な感性をそのまま表出させているかのよう。エディット・マスタリングを手掛けたのは、Jim O' Rourke本人。録音物でありながら生々しく、レコーディング時の緊張感あふれる空気もパッケージしてあるようなサウンドプロダクションになっています。
本作はまた、コロナ禍以前、三者が日本の各地で断続的に行ってきたライブパフォーマンス"mining"のひとつの成果でもあります。
腰を据えて、じっくりと、只々音と対峙する事をお勧めします。
置大石
アーティスト:Riki Hidaka、Jim O’Rourke、Eiko Ishibashi
タイトル:置大石
発売元: STEREO RECORDS
品番:LP (SR-LP-003) / CD (SR-CD-003)
販売価格 : LP 3,000円+税 / CD 2,000円+税
曲目: SIDE A / Track1 : 置_置_置
SIDE B / Track2 : 置___置___置
発売日 : 9月22日(水)
日高理樹
ソロ活動の他、下津光史率いるGOD、柳瀬二郎のbetcover!!などのバンドに参加。
https://rikihidaka.bandcamp.com/
石橋英子/EIKO ISHIBASHI
石橋英子は日本を拠点に活動する音楽家。ピアノ、シンセ、フルート、マリンバ、ドラムなどの楽器を演奏する。Drag City、Black Truffles、Editions Mego、felicityなどからアルバムをリリース。2018年にアルバム『The Dream My Bones Dream』 を発表。国内でCD、海外でLP盤が発売され、英音楽誌WIREの表紙を飾る他、各雑誌のベストアルバムに選出された。2019年、アニメ『無限の住人-IMMORTAL -」の音楽を担当。サウンドトラックが2020年に発売される。2019年5月にフランス国立電子音楽研究所Ina-GRMなどの招聘を受けヨーロッパ7カ国を巡るツアーを行い、6月にタスマニアのフェスDARK MOFOにJoe Taliaと共に出演、11月にバンド(山本達久、Joe Talia)を率いてオランダ、ユトレヒトのフェスLe Guess Who?とベルギー、コルトレイクのフェスSonic Cityに出演した。2020年1月、シドニーの美術館Art Gallery of New South Walesでの展覧会「Japan Supernatural」の展示の為の音楽を制作、シドニーフェスティバル期間中に美術館にて発表された。2021年、映画「ドライブ・マイ・カー」の音楽を担当。サウンドトラックが発売される。
ジム・オルーク / Jim O’Rourke
1969年シカゴ生まれ。Gastr Del SolやLoose Furなどのプロジェクトに参加。一方で、小杉武久と共に MerceCunningham舞踏団の音楽を担当、Tony Conrad、Arnold Dreyblatt、Christian Wolffなどの作曲家との仕事で現代音楽とポストロックの橋渡しをする。1997年超現代的アメリカーナの系譜から「Bad Timing」、1999年、フォークやミニマル音楽などをミックスしたソロ・アルバム「Eureka」を発表、大きく注目される。1999年から2005年にかけてSonic Youthのメンバー、音楽監督として活動し、広範な支持を得る。2004年、Wilcoの「A Ghost Is Born」のプロデューサーとしてグラミー賞を受賞。アメリカ音楽シーンを代表するクリエーターとして高く評価され、近年は日本に活動拠点を置く。日本ではくるり、カヒミ・カリィ、石橋英子、前野健太など多数をプロデュース。武満徹作品「コロナ東京リアリゼーション」など現代音楽に至る多彩な作品をリリースしている。映像作家とのコラボレーションとしてWerner Herzog、Olivier Assayas、青山真治、若松考二などの監督作品のサウンドトラックを担当。
置大石取り扱い店舗
CATFISH RECORDS (福岡)
CORNERSHOP (静岡)
DISK UNION 各店
ゲッコーレコード (東京)
GENERAL RECORD STORE (東京)
HMV渋谷 (東京)
HMV新宿 (東京)
HMV吉祥寺 (東京)
HMV ONLINE
JET SET (京都 / 東京)
LIE RECORDS (愛知)
LOS APSON? (東京)
NEWTONE RECORDS (大阪)
RECORD SHOP MIZO (広島)
RECORD SHOP FUJIYAMA (東京)
SONE RECORDS (静岡)
STEREO RECORDS (広島)
TEIEN ONLINE
TOWER RECORDS 各店
太平 BIGFLAT (山梨)
柴崎祐二 REVIEW
本作『置大石』は、ジム・オルーク、石橋英子、日高理樹という、稀有なアーティスト/演奏家3人による、インプロヴィゼーション作品だ。それぞれ、オルークがシンセサイザーを、石橋がピアノ、フルート、エレクトロニクスを、日高がギターの演奏を担当している。各人、もはや細かな経歴の紹介も不要だろうが、3人に共通しているのは、アヴァンギャルドとポップ双方に精通し、その振れ幅の中で闊達な演奏活動を繰り広げてきたという点だ。より正確に言えば、一般的に理解される「振れ幅」とは違い、彼らのうちにおいては、前衛/ポップの対立項は、初めから互いににじみ合っているとしたほうがいいかもしれない。シリアスなインプロヴィゼーションを交換していようとも、無調性のにじみを浮き上がらせようとも、総体としてのサウンドはほんのりと調和への希求に駆動されており、それがために、聞き手もおのずから清廉や光明を感知することになる(逆に、彼らが「ポップス」の演奏に携わる際には、均衡=ハーモニーの中に、「外側」へと通じる孔や棘を巧みに忍び込ませてくる)。
この三人は、本作の制作以前から度重なるライブ共演を行ってきた盟友同士でもある。2017年の広島・松山に始まり、2018年の東京・山梨、2019年には九州で即興演奏公演を行ってきた。一連のシリーズは「Mining」=採掘と名付けられ、2020年以降も各地での演奏を予定していたが、昨年来のコロナ禍によって中断を余儀なくされた。だから、本作はこのツアー企画の延長線上に位置するプロジェクトであるといえるだろう(双方のタイトルに、「採掘」した「石を置く」という図式を当てはめてみれば、ライブ/スタジオ録音の洒落たアナロジーであるようにもみえてくる)。
それゆえに当然、ここに収められた演奏からは、突発的なキャスティングに基づく一回性ではなく、むしろ練り上げられた「偶然」を手繰り寄せ直すような沈着さが感じられる。お互いの音と「ぶつかる」のではなく、音と音の間にある間合いを、様々な位置からじっくりと計量しつづける柔和な理知が起動している様子なのだ。
A面曲「置_置_置」は、敷衍される各音=ドローンが下地の役割を担う。柔和な電子音に、エレクトリック・ギターのひび割れたトーンが絡み合う時、音それ自体が音との等間隔を測ろうとする生きた知性として空間を泳いでいく。互いを深く探り合いながら、その深さ故に、徐々にお互いを浸しあう。その微妙な間合いの移ろいを見極めようと意識を集中していると、いつの間にか聞き手(私)はこの音楽の中に坐して、音楽にとり囲まれているのを知る。ギターの音は、それがまずもって物体(金属弦)の振動する様そのものであるのを感得させるように、時折野放図にいなないたりする。音の単線同士が交わる時たまさか偶発的なハーモニーを生み出すが、けれどもそこに長く安住することなく、ふんわりと離れていく。このような形で現出するハーモニーは、その希少性、非恣意性という面からいって、厳格にコンポーズされた場合におけるハーモニーよりも、なにやら尊いものに思えてくる。視覚的に表してみると、中心に物質のない惑星運動というイメージが適当かもしれない。3つの音(とそれを発出する演奏主体)が、互いを相対化しながら旋回し、ときに各々の軌道上で出会うような。
B面曲「置___置___置」は、じっくりとしたピアノの弱打から幕を開ける。リフレインと呼ぶにはいまだ心もとないフレーズの幼体。どことなくバースが、そしてリズムが生まれそうな瞬間が訪れるが、決定的発生は出来得る限り引き伸ばされていく。その豊かな時間感覚よ。ひとまとまりの音楽的なセル(細胞)を取り出そうとすると、そのそばから柔らかな外膜が破れ、また別のセルへと融解し、結合していく。音同士が、文節の区切りを譲り合っているかのようだ。各音がスケール(音階と「大きさ」両方の意味で)を生成しそうになると、おのずからその外へと泳ぎ出てしまう。まさに、生成の瞬間を永遠化する試み。それでも、A面「置_置_置」と同じく、時折現出する偶発的なハーモニーは、いいようもなく美しい。むしろ、聞き手としては、A面での訓練を経ているからこそ、より一層この調和の瞬間が高貴なものに感じられもする。
曲名の「置___置___置」をA面のそれと比べてみるのもいい。「置」と「置」のあいだの距離「_」が、B面の方では更に広がっているのだ。そう言われてみると、ここでの音は、遠ざかりつつあるお互いの姿に目を凝らすように、ある種の慈愛のようなものを湛えているようでもある。惑星/衛星運動はいつか解きほぐれ、遠心力に導かれていく。その遠い未来を知っているからこそ、お互いに目を細めながら、音は音とできるだけ長く交歓しようとする。
おそらく、音には、その音が現出している様(それを「音響」と言ってもよいかもしれない)の内奥、あるいはその背後に、潜勢力を隠し持っている。音は、今ここで現出的に響き「終わる」ためだけにあるのではなくて、おそらくその潜勢力ゆえに、響き「続ける」こと、時には共同体の外部へと差し向けられ、我々の想像力の外側の様子をいまここに反響させてくれるものでもある。
思えば、優れた庭師が、庭という「内部」に石を配置していく時、我々は、その石がその空間へと固定的に縛られている様を鑑賞しているのではない。むしろ、その石の置かれ方の任意性(=たまたまこうであるが、それゆえに発揮される美)によって、あり得る空間の無量大数的バリエーションが保証され、その多彩な可能性へと意識が開かれていくのを知るのだ。その時、我々の意識は庭の内部に抑圧されるわけではなく、石と石とが織りなす無限小×無限大の懸隔や、我々と石との浮動的な位置関係を通じて、「外部」へと誘われる。言ってみれば、庭という「自然」の中に任意に配置された石は、人が奏でる楽音のメタファーであり、楽音が演奏家の身体と分かちがたく存在しているのだとすれば、石は「主体」のメタファーでもあるかもしれない。そう。この瞬間、音は一つの「ありえる生の形」の似姿に、いわば原初の政治性そのものにもなりうるだろう……。石/音/主体はどれも、庭/音楽/政治に空孔を開けるトポロジカルな変革の契機となる。
音楽の潜勢力は、我々が知らずとも「外部」を志向している。音楽に携わる者(聞き手はもちろん、演奏家も)が出来るのは、それを手懐ける作業ではなく、任意の場所に配置して、じっくりと観察し、それが招来する意識の流れの川下に広がる光景を手繰り寄せることなのかもしれない。即興演奏が射程にしうるもっとも芳醇な美の姿は、そうしたプロセスの中にようやっと現れ出るものなのだろう。「置大石」を聴けば、きっとそう思いたくなる。
2021年8月 柴崎祐二(音楽評論家)
野田努 REVIEW
ele-kingにてレビュー掲載中